映画『灼熱』の歴史的・社会的背景について

1.クロアチア人とセルビア人の対立はなぜ起こったのか?

映画『灼熱』を観る上で、クロアチア人とセルビア人の対立がなぜ起こったのかを知っておくことは有益だと考えられる。そのためには、第二次大戦中に誕生したユーゴスラビアという国にについて知る必要がある。

(1)ユーゴスラビアの成立

自力でナチス・ドイツから解放

 旧ユーゴスラビアは、1943年11月に独立を宣言した。当時のユーゴスラビアの地域はナチス・ドイツの占領下にあり、ユーゴ共産党率いるパルチザンが抵抗運動を繰り広げていた。そのリーダーが、後にユーゴの終身大統領になるチトーである。彼は、多くの民族が入り乱れて住んでいた地域で、民族自決と小作農からの解放を掲げて、多様な人々の力を結集することに成功した。この抵抗運動はナチス・ドイツを苦しめ、最終的にソ連の力を借りることなく、自力で解放を果たした。これが旧ユーゴの運営に大きな影響を与えた。
 ナチス・ドイツからの解放と同時に、ソ連は「指導者」としてユーゴに入ってきた。そして、中央集権型の政治経済運営を進めようとした。農業の集団化は、その中の重要な項目であった。一時、ユーゴ共産党も集団農場の設立を試みたが、農民の抵抗に遭い、ほとんど進まなかった。「小作農からの解放を掲げてドイツと闘ってきた。戦争に勝ったのだから自作農になれると思っていたのに、なぜ集団農場なのか?」という強い疑問が農民からあがり、集団化に踏み切ることはできなかった。また、パルチザン闘争を牽引した「民族自決」も、中央集権型の政治運営とは相容れないものであった。
 このようなユーゴ共産党の動きは、スターリンの逆鱗に触れ、1948年6月28日、共産党の国際組織であったコミンフォルムから追放されてしまった。当時、ユーゴは東ブロックに属すると考えられていたので、西側からの援助も受けられることなく孤立し、経済的に苦しい状態に置かれた。その中で出てきた考え方が分権型の社会主義体制であり、労働者自主管理であった。「工場を労働者の手に」が象徴的なスローガンとして使われた。
 東側ブロックから離脱を余儀なくされたユーゴは、非同盟運動を始めるなど、東西対立の狭間にあって、絶妙なパワーバランスをとるようになる。西側諸国にとって、ユーゴは東ブロックとの緩衝地帯であり、再び東側に傾かないように、経済的、政治的支援を注ぎ込んだ。

旧ユーゴの多様性

 1950年代以降のユーゴスラビアは、ときには分裂の危機をはらみながら1991年まで何とか統一を保っていた。1963年と74年に大幅な憲法改正が行われ、そのたびに共和国の独立性が強まっていった。民族間の対立が起こったとき、チトー大統領が出てくると対立は収まった。1980年にチトーがこの世を去ったことは、ユーゴスラビアの統一に暗雲を投げかけた。チトーは終身大統領だったが、彼の死後、外交の場面で国を代表する大統領は、共和国と自治州(セルビア共和国の中のヴァイヴォディナとコソヴォ)の代表による1年交替の輪番制になった。
 ユーゴスラビアが存在した頃、その多様性を表現するのに、1から7の数字が使われていた。1つの国、2つの文字(ラテン文字とキリル文字)、3つの宗教(カトリック、セルビア正教、イスラム教)、4つの言語(スロベニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語)、5つの民族(スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、イスラム人)、6つの共和国(スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア)、そして7つの国(イタリア、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、ギリシャ、アルバニア)と国境を接する―今となっては懐かしい表現であるが、一つの国として運営していくことの難しさを象徴していたと言える。

(2)クロアチアの独立

ユーゴ共産党の分裂

 旧ユーゴが分裂する直接のきっかけになったのは、1990年1月のユーゴ共産党の分裂である。その数年前から、ユーゴスラビアをどう運営していくかについて、共和国間の対立が表面化していた。政治的経済的に危機的な状況だから中央集権化を進めていくべきだと主張するセルビアとモンテネグロに対して、スロベニアとクロアチアは、共和国の独立性をより高めて緩やかな国家連合としてユーゴスラビアを運営していくべきだという考え方を主張していた。
 1989年3月、セルビア共和国の憲法が改正され、自治州であったヴォイヴォディナとコソヴォの自治権を大幅に制限し、セルビア政府がコントロールできるようになった。それ以前から、連邦予算をセルビアが勝手に流用したり、公的年金基金に属していた財産を処分してセルビア国内の住民に配布するという人気取り政策をしたりといったことが起こっていたので、セルビア憲法の改正は共和国間の信頼関係に大きな亀裂を生んだ。
 そして迎えた第14回ユーゴ共産党臨時大会において、共和国間の対立が決定的になり、スロベニア共産党とクロアチア共産党の代表団が席を立って会議場から姿を消した。1990年1月20日、ベルリンの壁崩壊からわずか2カ月後のことである。表面的には共和国の自立を認めながら、影で背骨のようにユーゴスラビアを一つにまとめてきたユーゴ共産党が分裂したことは、ユーゴの統一維持に暗い影を落とした。

初めての自由選挙

 1990年4月から5月にかけて、クロアチアで第二次大戦後初めての複数政党による自由選挙が行われた。この選挙で多数をとったのは、フラーニョ・トゥージュマン1)率いるクロアチア民主同盟である。クロアチア人の国を作ることを掲げ、民族主義を前面に押し出して勝利した。トゥージュマンは、初代クロアチア大統領に選出された。
 1990年5月30日、選挙後に初めて招集されたクロアチア国会で、トゥージュマン大統領は新憲法草案を提示した。この草案は、クロアチア民族の独立を強調するものだったため、クロアチア国内に住んでいたセルビア人の一部がクロアチアからの独立を画策し始めた。この動きを封じ込めるべく、クロアチア政府は、セルビア人をはじめとした少数民族の権利保護を憲法の中に盛り込んだ。そして、90年12月22日に新憲法が成立した。
 ユーゴ共産党分裂後も、共和国間でユーゴスラビアの在り方について議論が闘わされていた。しかし、セルビアのやり方に不信感を持ったスロベニアとクロアチアは、1974年制定のユーゴ憲法の規定に則って、連邦からの独立手続に入った。スロベニアでは90年12月23日にレフェレンダムが実施され、独立賛成票が94%を占めた。クロアチアでレフェレンダムが行われたのは91年5月である。セルビア人たちの多くが投票を拒否したこともあって、分離独立賛成が94.2%に達した。そして、91年6月25日をもってユーゴから離脱することになった。しかし、紛争拡大を懸念したヨーロッパ共同体ECの要請を受けて、3カ月の猶予期間を置くことになった。

1990年当時のユーゴスラビア社会主義連邦共和国

紛争の始まり

 1991年6月末から7月初めにかけて、ユーゴ人民軍がスロベニアの独立を阻止する動きに出たが、わずか10日間で終結し、主戦場はクロアチアに移っていった。クロアチアには、当時、人口の12%にあたる約60万人のセルビア人が住んでいた。その居住地域は、ボスニア・ヘルツェゴビナ国境付近とセルビア国境付近に固まっていた。90年夏頃からセルビア人居住地域の分離独立の動きがあったが、91年春頃からその動きが先鋭化していった。
 91年10月5日、トゥージュマン大統領がクロアチア国民に対して、ユーゴ人民軍の支援を受けたセルビア人勢力の動きに徹底抗戦を呼びかける演説を行った。その2日後、ユーゴ人民軍の戦闘機が大統領府をミサイル攻撃するという事件が発生する。クロアチア政府の要人は難を逃れたが、この事件が決定的となり、クロアチアはユーゴスラビアからの完全独立を宣言することになった。クロアチアの独立記念日は10月8日に設定されている。
(注1)日本のマスコミは「ツジマン」と表記してきたが、クロアチア語の読み方はトゥージュマンである。この解説文では、クロアチア語の読み方により近い「トゥージュマン」と表記する。

(3)クロアチアにおける戦争

戦争の被害

 クロアチアの人々は、1991年から95年にかけて闘われた戦争を「独立戦争」と呼んでいる。日本人は、外国のメディアがcivil warという表現を使ったこともあって「ユーゴの内戦」と表現することがあるが、それはクロアチア人の認識と全く異なっている。クロアチア人とあの戦争について話すときは、決してcivil warという表現を使ってはならない。「内戦」と言ったとたんにそっぽを向かれ、それ以上の会話は成り立たなくなるであろう。それくらい、つらく悲しい体験であった。
 クロアチアには7つのユネスコ世界遺産がある。それらの中で特に有名な二つが、91年の戦争で被害を受けた。中世の城壁都市ドゥブロブニク(文化遺産)と16の湖が連なるプリトヴィッツェ(自然遺産)である。二つとも世界遺産登録が始まった初期の段階(1979年)に世界遺産になっている。
 ドゥブロブニクでは、度重なる砲撃によって城壁内の教会や民家が破壊された。現在では、ユネスコの支援を得て元通りに修復され、戦争の傷跡を見ることはほとんどできない。わずかに、旧市街城門横の教会の壁に保存されている不発弾が開けた穴や、城門の入口付近に掲げられている被弾箇所を示す旧市街の地図でわかる程度である。
 セルビア人勢力は、クロアチアのアドリア海沿岸を領土にすることをねらっていた。セルビア本国は内陸の国であり、昔から海への出口を求めていた。「セルビア人の住んでいるところはセルビア人の領土だ」という大セルビア主義を掲げ、周囲の国に勢力範囲を拡大する野望を常に持っていた。ドゥブロブニクは、その格好の標的だったのである。
 もう一つの世界遺産プリトヴィッツェは、1995年までセルビア人勢力の支配下にあった。クロアチア政府は、湖が破壊されているのではないかと心配したが、幸いそれはなかった。ただ、野生動物が砲弾の音を恐れて姿を消していたり、魚が乱獲されたりしていた。プリトヴィッツェは国立公園になっており、依頼すればレンジャーが案内してくれる。そのレンジャーの一人から筆者が直接聞いたところによると、セルビア人勢力はダイナマイトを湖に投げ込んで魚を気絶させて一網打尽にする漁をしていたという。成魚だけでなく稚魚も捕っていたので、95年にクロアチアがこの地を奪還したときには魚が姿を消していた。その後、現在に至るまで魚資源の回復活動が続けられている。
 この独立戦争は、1998年1月15日に最後の占領地であった東スラヴォニアがクロアチア政府に返還されるまで続いた。この戦争の被害は、クロアチア政府の発表によると、死者10668人、行方不明者2915人、負傷者37180人、難民(居住地を追われた人)約20万人であった。他方、セルビア人勢力側では、死者、行方不明者合わせて8039人、難民約45万人にのぼったと言われている。

数次にわたる領土回復作戦

 クロアチアは、1992年1月15日にヨーロッパ共同体(EC)によって独立を承認される。日本がクロアチアを承認したのはそれよりも後だが、アメリカ合衆国よりも早かった。この点をクロアチアの人たちは、とても恩義に感じてくれている。アメリカ追従外交と揶揄されることが多い日本の外交だが、クロアチアの独立承認については独自の判断をした。この点は日本国民にほとんど知られていない。
 国連による調停では領土を回復できないと判断したクロアチア政府は、自国軍を育成して領土回復作戦を展開した。その最大の軍事作戦は、1995年8月4日未明から84時間にわたって展開された「嵐作戦」である。この時、筆者は、休暇でアドリア海沿岸に滞在していた。朝のニュースで「嵐作戦が始まりました」と報じられたとき、「いったいどうなるんだろう」という不安に襲われたのをよく覚えている。この作戦は、セルビア人勢力の大きな抵抗に遭うことなく、実質的に3日間で終了した。
 1991年秋にボスニア国境に近い地域をセルビア人勢力が占領したとき、そこに住んでいたクロアチア人たちを追い出した。その空いたスペースに、ボスニアやセルビア本国の貧しいセルビア人たちが移住してきていた。この嵐作戦によって、移り住んだ人たちも含めた約20万人のセルビア人が難民となって、ボスニアのセルビア人支配地域やセルビア本国に流れていった。まさに一般民衆の悲劇である。政府の求めに応じて移住してきたら、次には追い出されてしまったのである。為政者たちが見ているのは単なる「人数」であるが、それぞれの人には家族があり、日々の生活がある。それがすべて破壊されてしまうのだから、戦争をしていいはずがない。

戦争が残したもの

 戦争はさまざまな悲劇を生む。セルビア人とクロアチア人の夫婦が仲違いをして離婚したという例は、枚挙にいとまがない。難民として家を失い、家族を失った人たちもたくさん発生した。戦闘で負傷し、身体の一部を失った人たちもたくさんいる。
 クロアチア人にとって、独立は悲願だった。フラーニョ・トゥージュマンという大統領を選び、彼が「クロアチア民族の国」を強調しすぎたために、クロアチア国内のセルビア人たちの不安を増大させ、セルビア本国に付け入る隙を与えてしまった。
 歴史に「もしも」は禁句だが、もしトゥージュマン氏があそこまでクロアチア民族主義をあおらなかったら、戦争は避けられたかもしれない。また、もしトゥージュマン氏が、当時のセルビア共和国大統領ミロシェヴィッチ氏とお金で解決する方法を模索していたならば、あの悲劇は起こらなかったかもしれない。今となっては何を言っても詮無きことではあるが、民族が大きな転換期を迎えるとき、賢明な指導者に恵まれるか否かがいかに重要であるかを旧ユーゴの戦争はまざまざと見せつけている。

このページTOPへ