ベルイマン作品の象徴①―過去をめぐる幻想
ベルイマンの作品では、幻想的なものがごく自然に現実のなかに取り込まれている。多くの監督たちに影響を及ぼしているのは、そんな現実と幻想の狭間に登場人物の生を描き出す独自の視点と表現だろう。但し、幻想的なものがなにを意味するのかは作品によって変わる。ここではそれを大きく三つに分けてみたい。
まず、過去が幻想的なものの源になっている場合であり、『野いちご』が代表作になる。名誉博士の称号を授与される主人公の老教授は、空間と同時に幻想的なものを通して時間を旅し、内面が変化していく。過去や記憶をめぐるこのようなアプローチに影響を受けている監督は少なくない。
たとえば、ウディ・アレンだ。『私の中のもうひとりの私』では、充実した人生を送ってきたと信じる女性教授が、隣室からもれる精神分析医と患者の会話を耳にしたことがきっかけとなって、過去の自分を見つめなおす奇妙な旅を始める。『地球は女で回ってる』は、主人公の作家が母校での表彰式に臨むという設定がすでに『野いちご』をなぞっている。そのドラマでは、過去と現在、虚構と現実の境界が曖昧になり、“Deconstructing Harry”という原題が物語るように、主人公の人生が再構築されていくことになる。
カナダの鬼才アトム・エゴヤンは、インタビューで最も影響を受けた監督としてベルイマンの名前を挙げている。その影響はまずなによりも過去に対する独自の視点に表れている。『エキゾチカ』、『スウィート ヒアアフター』、『アララトの聖母』といった彼の作品では、ドラマのなかで過去が徐々に明らかにされていくだけではなく、最終的に過去と現在を繋ぐ回路が変化し、導入部とは異なる世界が切り拓かれる。
韓国映画界で異彩を放つパク・チャヌクも、影響を受けた監督としてベルイマンの名前を挙げている。パク・チャヌクの作品といえば、独特の美学に貫かれた造形や暴力描写が真っ先に思い浮かぶが、実は過去が重要な位置を占めてもいる。『オールド・ボーイ』や『親切なクムジャさん』、そしてハリウッドへの進出を果たした最新作『イノセント・ガーデン』で、主人公が向き合う過去には、冷酷な罠や秘密が隠されている。そして、そんな過去と現在のねじれが主人公の人生を大きく変えてしまう。
ベルイマン作品の象徴②―狂気としての幻想
次に、統合失調症のような狂気としての幻想が現実を侵食していく場合だ。作品でいえば、『狼の時刻』がこれに当てはまる。小島で妻と過ごす主人公の画家は、少年時代のトラウマや愛人の記憶、創作をめぐる不安などによって精神に変調をきたし、悪夢に引き込まれていく。デヴィッド・リンチがAFI(American Film Institute)の映画祭でお気に入りの5本を選んだときには、この作品が含まれていた。『狼の時刻』で画家を悪夢の世界に招き寄せるのは、伯爵を名乗る謎めいた男だが、この人物は『マルホランド・ドライブ』や『ロスト・ハイウェイ』に登場するカウボーイやミステリーマンの原型といっていいだろう。
さらに、スタンリー・キューブリックの『シャイニング』とこの『狼の時刻』の結びつきも見逃せない。『シャイニング』はスティーブン・キングの小説の映画化ではあるが、キューブリックは明らかに原作よりも『狼の時刻』から大きな影響を受けている。その違いは、幻想的なものと現実の関係に表れている。キングの原作では、内面の不安や抑圧と外部に存在する幽霊が結びつくことが崩壊の引き金になる。だがキューブリックは、『狼の時刻』と同じように、内面の狂気が生み出すもうひとつの世界が現実を侵食していく恐怖を描き出している。
このような幻想の表現は、スティーブン・スピルバーグの初期の作品にもインスピレーションをもたらしているように思える。彼は『激突!』や『ジョーズ』で、タンクローリーや巨大なサメを単に外部に存在するものとしてとらえているだけではない。特に『激突!』はわかりやすい。凶暴なタンクローリーの存在を認めているのは主人公だけで、それを運転しているはずの人間についても最後まで曖昧にされている。スピルバーグは個人の視点を強調することによって、抑圧された内面を描いてもいるのだ。