リューベン・オストルンド[監督・脚本]
『フレンチアルプスで起きたこと』は私が長年魅了されてきたある質問に源をおいています。それは、「人間は自然の大災害のような突然起きた予期せぬ事態でどのように行動するのか?」です。この物語は、休暇で雪崩に遭遇し、父親が恐れをなして逃げてしまうある家族について描いています。危機を脱した時、彼は己が恐怖心に飲み込まれてしまったことを恥じ入ります。
この物語は私にとって忘れられない寓話から来ています。数年前のことですが、あるスウェーデン人のカップルが(実は私の友人ですが)ラテン・アメリカを旅していた時に、突然どこからともなく拳銃を持った男が現れて、彼らの眼前で銃を発砲したのだそうです。その時夫は本能的に逃げて隠れたのですが、妻は置き去りにされました。彼らはスウェーデンに帰国したのですが、妻は、アルコールが入ると、この物語を何度も何度も繰り返し話すのでした。
私の想像力は刺激されました。私はこれに似た事件が実際にあったケースを調査し始めました。緊急事態に起きた物語、船の海難事故時の乗客の物語、ツナミに見舞われたツーリストの物語やハイジャックで人質になった人々の物語などです。このような極限の状況で、人々は全く想像しえなかった余りにも自己中心的な行動に及びます。実際に研究結果があるのですが、ハイジャックや船の沈没といった大惨事の後に多くの生存者カップルは離婚しています。また、多くのケースで、男性は彼らがなすべきとされている紳士的な勇敢な振る舞いにそっては行動していません。生か死かという状況で、人々は自分の生存が掛った場合は、男性の方が女性に比べて逃げ出して自分を守るという傾向があることも明らかになっています。それらが離婚の原因になることは大いにあり得ます。これらの調査結果をもって、私は、世の既成概念となっている男は妻や家族を守る存在であり危険に直面した時に逃げてはいけないという社会通念を掘り下げてみようと思いました。
そして、私は、あるスキー・リゾートで起きた実存的ドラマのコンセプトに到達しました。それは私に大いに訴えかけました。スキー・ホリデーというのは自身の生命をコントロールするというコンセプトをおおいに表現すると思いました。ヨーロッパのほとんどのスキー・リゾートと同じで、『フレンチアルプスで起きたこと』が撮影されたレザルクはエグゼクティブの父親と母親と二人の子供からなる中流家族を受け入れるために、1950年代に建設されました。母親を料理や家事から解放して家族とスキーを楽しんだりリラックスしたりできるように父親が家族サービスするキッチン付きアパートメントスタイルのリゾートです。広告でもご存知のように、親しみやすい気楽なリゾートで、ご主人が子供たちの相手をしてスキーで遊んでいる間に奥さまが羽をのばしてくつろいでいる姿が容易に想像できるかと思います。
休暇は、西欧においては、父親が普段の不在を償い取り繕う時間なのです。それは、彼が子供たちに身を捧げ面倒をみる機会でもあります。しかしながら、『フレンチアルプスで起きたこと』では、「洗練された男」が「自然」に対峙することとなります。映画の登場人物たちは様々な経験をします。特に父親であるトマスは最も残酷な経験をすることになります。彼の本能は彼の妻や子供を見捨てて自分自身が助かることを指示しました。彼は、自身が自然の力に従わざるを得ない者であることに直面し、自分が生存本能という最も生々しい人間の本能を隠せなかったことを知るのです。
雪崩のパニックが去って、登場人物たちは立ちあがり体に付いた雪を払い、ぎこちない笑いをどうにか取り戻します。身体に損傷はないものの家族の絆は根幹から揺らぎ始めます。それぞれが果たしてきたと思われる役割に対して疑問を感じ出し、期待された通りに行動しなかったトマスの新しいイメージと向き合わねばならなくなります。トマス自身も自分の行いを逡巡し、子供たちが最も必要とする時に彼らを見捨てた自分を夫とする妻のエバとも対峙しなければならなくなるのです。
この特別な状況は、家族のメンバーたちが日常は声に出して確認しなくともお互いに抱き合っているそれぞれの役割が広範囲に存在することを表しています。それぞれは演ずるべき役柄を与えられており、また他者にもその通りに行動することを期待します。多分、無意識ですが、ほとんどの人は、母親は毎日子供たちの世話をするものだと思っているし、一方、父親は突然の危険が襲ってきた時は家族を守るために立ち上がるものだと思っています。しかしながら、今日において、男性が家族を守るために立ち上がるケースは稀です。なぜなら男性には実際にそのような行動を起こす機会がない。西洋の中流階級社会においては具体的な肉体的脅威はそう多くは存在しません。それでも、人々は男性にそれを期待する。男性も自分自身にその期待を課しているのです。この事実を私は面白いと思います。この期待の概念は現実とかけ離れています。危機に襲われた時家族を見捨てるのは世の概念に反して多くの場合男性であることを示す統計があります。海難事故の際の男性生存者の比率が女性のそれよりも高い調査があるのです。
『フレンチアルプスで起きたこと』の雪崩のシーンは大変恐ろしいものとなりました。スタジオ内にレストランのオープン・テラスのセットを作りグリーン・スクリーン撮影をしました。それをブリティッシュ・コロンビアで実際に撮影された美しい雪崩の映像と合成し、雪と霧をデジタルで加えました。これらのポストプロダクションの作業では、PhotoshopとAfter Effectsによる独自のカメラ・ムーブメントとエフェクトを駆使しました。私の以前の作品の『プレイ』『インボランタリー』そして私にとって最も重要な短編『インシデント・バイ・ア・バンク』でも同様の手法がとられています。これらのカメラワークはすべて編集の過程で作り上げたものであることを述べたいと思います。
『フレンチアルプスで起きたこと』は素晴らしい雪山の景色を背景に起きた物語で、山々やリゾートホテルの本物のスケール感をCGで表現しました。もちろん、前作品同様、CGの痕跡など残っていません。観客は映画の壮大な風景に手が加わっているなどと微塵も思わないはずです。
撮影には、撮影監督のフレデリック・ウェンツェルもいろんな種類の撮影のテストを重ねて、アナモフィック・レンズのARRI Alexaを使用することに決めました。このレンズはより映画的な興奮を醸し出してくれますし、雪山の壮大な迫力をリアルに表現してくれました。また、私が前作『プレイ』でなしえた背景が入ったクローズアップショットがあるのですが、このレンズは、それよりももっと登場人物に寄った背景入りクローズアップ撮影を可能にしてくれました。
本作品の構成は、スキー休暇の時計にそって進みます。初日、二日目、三日目─そして五日目に家族は帰国するべく空港にむかう。家族の力関係は初日に見てとれます。素晴らしい天候に恵まれ山々を堪能する裕福な一家。雪崩の事故は二日目に起きます。そして三日目、四日目、五日目と観客はこの家族がいかに雪崩の後の顛末を処理しようとするかを見るのです。この五日間という構成は、毎日の日課の繰り返しを確認することになります。毎朝の朝食、就寝前の歯みがき、そこに雪崩の前と後の一家の行動の変化を見るのです。
『フレンチアルプスで起きたこと』は、エバとトマスの成長の旅を追いかけます。彼らが事件をどう認識しどのような思いを抱いているか、また絆を取り戻すための格闘と悲しみ、そして希望を共有するようすを観客は目撃します。観念的だった私のこれまでの作品に比べて本作は観客の感情により直接的に訴えるのではないかと思います。最後の場面で、一家が空港にバスで向かう途中、乗客たちがバスを降りて道路に立つシーンがあります。それは向う見ずな運転手の荒い運転のせいばかりではなく、恐怖心が彼らにとらせた行動でもありました。彼らは山を歩いて下りることになるのですが、バスが何事もなく走っていくのを見て、全員が恥かしさを感じるのです。そして、歩き続けるうちに、それが徐々に孤独感へと変わっていく。社会的に被っていた仮面がはがれることで、彼らは強い連帯感を共有することとなるのです。