―映画『灼熱』をもっと良く知るためにー ❷

ジャーナリスト・伊藤千尋さんによるコラムです。朝日新聞の記者として、中南米、ヨーロッパなど世界各地で取材を重ね、現地情勢を伝え続けてきた伊藤さん。1991年には紛争が起きた直後のユーゴスラビアに入り、各地を取材して回りました。クロアチア紛争を肌で感じた伊藤さんが考える、映画『灼熱』が伝えるものとは…?

ユーゴスラビアが内戦状態に入った直後の1991年7月、私は朝日新聞の特派員として現地に入った。セルビア、クロアチア、ボスニア、マケドニアを回ったが、すでに首都ベオグラードは1万5千人の避難民でごったがえしていた。この映画の第1章に描かれた世界が目の前にあった。

避難民数百人がうずくまる小学校の体育館に能面のように表情の無い少年がいた。クロアチアのグリーナという人口1万2千人の村から逃げてきたセルビア人だ。高校1年生で名をマニシャという。

クロアチアが独立を宣言する前夜、大勢の警官が村にやってきた。明け方には民兵も入り自宅の一帯で銃撃戦が始まった。午前4時半から8時半までの4時間、マニシャは床に身を伏せ続けた。昼になって警察はセルビア人に向けて無差別に自動小銃を発砲した。70歳のおばあさんが撃たれた。マニシャの親友は古い銃で応戦したが装甲車からの銃撃で射殺された。空手が得意な子だった。

隣のおばあさんの家にはバズーカ砲が撃ちこまれた。あとで行くとテレビやミシンが略奪されていた。「そこで悲しかったのは…」とマニシャは泣き出した。「第2次大戦で片足をなくしたおじいさんの予備の義足がズタズタに切り裂かれていた。なんでここまでしなきゃいけないんだ」

それでも、当時はまだ希望があった。教師ナーダさんは「民族は違っても仲良くしてきたのだから、隣人として暮らせる日がまたきっと来る」と言った。

そのクロアチアに行くとテレビの画面で屈強な男たちが踊りながら「殺せ、殺せ、セルビア人を殺せ」と叫んでいた。政府提供の番組だ。ボスニア政府はアメリカのPR会社に発注して「民族浄化」という言葉を広めセルビアを非難するのに使った。国家が憎しみを煽って国民を戦争に駆り立てたのだ。

いったん戦争が始まると憎しみの連鎖となり、個人の感情は集団の意思に埋没させられる。社会が狂気に陥る前に理性を取り戻すことが必要だ。偏狭な民族主義を乗り越えるのは民族を超えた人類愛である。それは人々の本性に確かに潜んでいる。ユーゴの現場は、そう教える。

伊藤千尋(国際ジャーナリスト)

―映画『灼熱』をもっと良く知るためにー ❶

クロアチア・ザグレブ在住のライターであり、クロアチア観光情報サイト「CroTabi(クロたび)」を主宰する小坂井真美さんによるコラムです。パートナーのご両親がクロアチア人、セルビア人という小坂井さんの目から見た『灼熱』の世界とは…?

どこまでも青く澄みわたるアドリア海、ロマンチックな海辺の街々、神秘的な湖と森、どこかノスタルジックな雰囲気が漂う内陸部の街々、そしておいしいワインに料理、陽気で温かい人々・・・。まさに『地上の楽園』と呼ぶにふさわしいクロアチア。

私もこの国を訪れ、不思議な魅力をもつ地上の楽園にすっかり魅せられたひとり。今は首都のザグレブに暮らしています。

長い歴史の中で、いくつもの大国に翻弄されてきたクロアチアは1991年にユーゴスラビア連邦共和国からの独立を宣言。戦争が始まり「楽園」は「地獄」へと一転、多くの血と涙が流されました。

1995年に戦争が終結してから20年以上が経ち、今ではすっかり平和と美しい風景が戻ってきたクロアチア。町の人々も陽気で温かく、こんなに美しい平和なこの国で、つい20年程前に戦争が行なわれたなんて想像し難いことでしょう。

クロアチアに限らず、旧ユーゴスラビア諸国を訪れる旅人からは「本当に美しい国ですね。それに人が本当に親切で温かい」という声を度々耳にします。ですが、美しい風景や人々の人懐っこい笑顔の裏には、筆舌に尽くし難い悲しく辛い過去が陰を潜めているのです。たくさんの人が今でも心の奥深くに深い傷や悲しみを抱えながら生きています。

私の身近にも、まさにこの物語の恋人たち、イェレナとイヴァンのような経験をしたクロアチア人女性がいます。彼女の夫はセルビア人。一部周囲の人々から反対されながらも、大恋愛の末、結婚。子供にも恵まれ幸せに暮らしていましたが、戦争でたくさんのもの、そして最愛の夫を失いました。

彼女はよくこんな言葉を口にします。「今でも思う。なぜ、どうして戦争が起こってしまったのか・・・何のために夫は死んでいったのかと。あの時、みんな狂っていた。日々の生活や社会への不満や鬱憤を抱えた人たちが、ナショナリズムに扇動され、戦争が現実となってしまった。

真実、目の前にある人、モノを見ようとしないで、一時的な感情や固定観念に囚われて物事を判断したり行動するのは、非常に危険なこと。そのせいで、本当にかけがえのない大切なものを失ってしまうことがあるの。私たちみたいにね。再びあのような悲劇、戦争を繰り返さないためには、ひとりひとりが社会の風潮や情報に流されず、真実を見極める目を持ち、しっかりと考えることが大切。憎しみや不寛容な心は不幸以外、何も生み出さない」

『灼熱』で描かれる恋人たちの物語は、決して“架空の物語”ではありません。人間とは、民族とは、国とは、平和とは、愛とは、私たちが本当に大切にするべきものとは……この映画は、きっと様々なことを考えさせてくれることでしょう。

小坂井真美(クロアチア在住ライター クロアチア観光情報サイト「CroTabi(クロたび)」主宰)

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